自閉スペクトラム症知覚体験シミュレータ

大阪大学大学院工学研究科の長井志江特任准教授(現,東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構 特任教授)と東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎准教授の研究グループは,2015年3月に自閉スペクトラム症(ASD: autism spectrum disorder)視覚体験シミュレータを発表した.本シミュレータはASD者の非定型な視覚世界を体験することのできるヘッドマウントディスプレイ型装置で,視覚過敏や視覚鈍麻として知られるコントラスト強調や不鮮明化,無彩色化,砂嵐状のノイズといった症状が,環境からのどのような視聴覚刺激によって引き起こされているのか,その発生過程を計算論的に解析し,それをモデル化することで実現した.本シミュレータを利用することで定型発達者がASD者の視覚世界を体験することができ,非定型な視覚が社会性の問題にどのような影響を与えているのかを内部観測者視点から理解し,ASD者にとって真に有益な支援法を提案することが期待できる.

ASD視覚体験シミュレータ.カメラとマイクロフォンから入力された視聴覚信号を実時間で処理し,ヘッドマウントディスプレイ上にASDの視覚世界を再現する.

実験で得られた結果を計算論的にモデル化し,それをもとにASDの視覚症状を再現した映像.左が入力動画,右がASDの視覚症状を表す.

研究の背景と成果

ASDは従来,社会的能力の問題と考えられてきたが,近年の認知心理学研究や当事者研究によりその原因が社会性以前の感覚・運動レベルにあることが指摘されている.一般に,人間の脳では感覚器から入力された信号を時空間的に統合することで環境認識や行動決定を行うが,その統合能力が定型発達者と異なることで高次の認知機能である社会的能力に問題が生じたり,知覚過敏や知覚鈍麻などの非定型な知覚症状が現れるというものである.
長井特任准教授と熊谷准教授の研究グループでは,ASD者の非定型な知覚と社会性の問題にどのような関係があるのかを探るため,まず,非定型な視覚が環境からのどのような視聴覚刺激によって生み出されるのかを解明した.視覚という主観的な経験を客観的かつ定量的に評価するため,画像・音声処理技術を用いてさまざまな視覚過敏・視覚鈍麻のパターンを画像フィルタとして用意し,ASD者が日常生活の経験に基づいて自己の視覚世界を構成的に評価・報告できるシステムを開発した.これは,自己の経験を内省することが苦手なASD者にとって,彼らの経験を具現化し,客観的に評価することを可能にする画期的なシステムとなる.当研究グループは,成人のASD者を対象に本システムを用いて実験を行い,コントラスト強調や不鮮明化,無彩色化、砂嵐状のノイズといった視覚症状が,視覚刺激の輝度やエッジ量(複雑さを表す量),動き,聴覚刺激の音強度とこれらの時間変化という,環境からの低次の視聴覚信号と相関を持つことを明らかにした.これは,社会性の問題と考えられているASDの症状が,社会性以前の低次の感覚・運動レベルに起因しているという仮説を支持する一つの可能性を示している.
さらに当研究グループでは,上記の実験結果をもとにASD者の視覚世界をリアルタイムで再現することのできる,ヘッドマウントディスプレイ型視覚体験シミュレータを開発した.環境からの視聴覚信号をもとにそれと相関をもつことが明らかとなった視覚過敏・視覚鈍麻の症状をヘッドマウントディスプレイ上に再現することで,ASD者が自己の症状を客観的に認識できるだけではなく,定型発達者がその視覚世界を体験し,ASD者の非定型な知覚が引き起こす社会性の困難さを主観的に評価することのできるシステムを実現した.これにより,ASDに対するさらなる理解が可能となる.

本研究成果が社会に与える影響

ASDと診断される幼児の数は2009年には110人に1人の割合にものぼり,その急激な増加が問題視されている.さらに,ASDの遺伝的・環境的要因や脳機能不全には未知の部分や多様性があり,個人の症状に合った適切な治療法や支援法が確立されていないのが現状である.これに対してASD視覚体験シミュレータは,感覚・運動情報の統合能力の非定型性が社会性の問題にどのような影響を与えるのか,また,それらがどのような神経学的メカニズムによって引き起こされているのかという課題の解明に役立つことが期待できる.さらに,視覚体験シミュレータを通して定型発達者がASD者の抱える困難さを共有することで,ASD者の視点に立った真に有益な支援技術とその設計原理を提案し,彼らを取り巻く社会構造の設計の見直しにも貢献することが期待される.

その他

  • 実験参加者募集:本研究では実験に参加いただける方を募集しています.詳しくはこちらをご参照下さい.
  • ASD視覚体験ワークショップ開催依頼:ASD視覚体験シミュレータを体験していただけるワークショップを開催しています.開催をご希望の方はこちらをご参照ください.

参考文献

  • 長井志江, “自閉スペクトラム症の特異な視覚世界を再現する知覚体験シミュレータ,” 精神看護, vol. 19, no. 1, pp. 59-63, 2016年1月. [HP]
  • 長井志江, 秦世博, 熊谷晋一郎, 綾屋紗月, 浅田稔, “自閉スペクトラム症の特異な視覚とその発生過程の計算論的解明:知覚体験シミュレータへの応用,” 日本認知科学会第32回大会発表論文集, pp. 32-40, 2015年9月18日-20日. [PDF]
  • Shibo Qin, Yukie Nagai, Shinichiro Kumagaya, Satsuki Ayaya, and Minoru Asada, “Autism Simulator Employing Augmented Reality: A Prototype,” in Proceedings of the 4th IEEE International Conference on Development and Learning and on Epigenetic Robotics, pp. 123-124, October 2014. [PDF]

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